

脚気は、ビタミンB1(チアミン)の欠乏を背景として生じる疾患です。チアミンは糖質代謝に関わる補酵素として重要であり、ピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体、α-ケトグルタル酸デヒドロゲナーゼ複合体、トランスケトラーゼなどの酵素反応に関与します。チアミンが不足すると、ブドウ糖を十分に利用したエネルギー産生が難しくなり、エネルギー需要の大きい末梢神経、心筋、中枢神経系が影響を受けやすくなります。
臨床上のビタミンB1欠乏症は、末梢神経障害を中心とする乾性脚気、浮腫や循環不全を伴う湿性脚気、さらに急速に循環虚脱へ進行し得る脚気衝心などの形で現れます。また、眼球運動障害、運動失調、意識障害などを呈するウェルニッケ脳症も、チアミン欠乏に関連する重要な病態です。脚気とウェルニッケ脳症は別々に捉えるのではなく、低栄養や吸収障害を基盤とするチアミン欠乏スペクトラムとして認識することが、臨床での見逃し防止につながります。
厚生労働省の資料でも、ビタミンB1欠乏により神経炎や脳組織の障害が生じ、代表的な欠乏症として脚気およびウェルニッケ・コルサコフ症候群が位置付けられています。症状が非特異的な倦怠感、食欲不振、易疲労感などから始まることがあるため、患者の栄養状態、飲酒状況、食事内容、体重変化を症候と併せて確認することが重要です。
mhlw.go(https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000067134.pdf)
厚生労働省:水溶性ビタミン(ビタミンB1)に関する資料
脚気は歴史的疾患という印象を持たれやすい一方、現在の医療現場でも発症し得ます。特に、食事摂取量の低下、偏食、過度の精製炭水化物摂取、アルコール使用障害、悪性腫瘍、妊娠悪阻、摂食障害、長期の嘔吐・下痢、慢性消化管疾患、消化管手術後、透析、利尿薬使用などは、チアミン欠乏のリスクを高め得る背景です。高カロリー輸液や糖質負荷を行う局面では、潜在的なチアミン不足が顕在化する可能性にも注意します。
問診では、単に「食べられていますか」と尋ねるだけでは不十分です。主食中心で副菜・主菜が乏しくないか、食事量低下がいつから続いているか、飲酒量が増えていないか、サプリメントや栄養補助食品に依存して食事が偏っていないか、嘔吐・下痢・食欲低下が持続していないかを具体的に確認します。高齢者、独居者、認知機能低下のある人では、本人の申告と実際の摂食状況が一致しないこともあるため、家族、介護者、看護記録などから情報を補完します。
| 項目 | 基準・内容 | 備考 |
|---|---|---|
| 栄養摂取低下 | 食事量低下、偏食、長期絶食、嘔吐・下痢の持続 | 摂取低下の期間と体重変化を確認する |
| アルコール使用 | 多量飲酒、食事を伴わない飲酒、アルコール使用障害 | 吸収低下、貯蔵低下、食事不良が重なり得る |
| 吸収障害・術後 | 消化管疾患、胃切除後、肥満治療手術後など | 経口摂取があっても欠乏し得る |
| 糖質負荷 | 高糖質食、高カロリー輸液、急速な栄養投与 | 潜在的欠乏の顕在化に注意する |
| 神経症候 | 下肢のしびれ、灼熱感、筋力低下、腱反射低下 | 左右対称性の末梢神経障害を確認する |
| 循環器症候 | 頻脈、浮腫、呼吸困難、心拡大、うっ血所見 | 心不全の鑑別と並行して評価する |
チアミン欠乏症では、初期に疲労感や易刺激性などの曖昧な症状がみられ、重症化すると神経、筋肉、心臓、脳に影響が及ぶとされています。症候の一つだけで判断せず、「低栄養または吸収障害の背景」と「神経・循環器・中枢神経症候」の組み合わせから疑うことが実践的です。
msdmanuals(https://www.msdmanuals.com/ja-jp/home/11-%E6%A0%84%E9%A4%8A%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E3%83%93%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%B3/%E3%83%81%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%B3%E6%AC%A0%E4%B9%8F%E7%97%87)
乾性脚気では、末梢神経障害が中心となります。両側下肢優位のしびれ、感覚鈍麻、疼痛、灼熱感、筋力低下、歩行障害、腱反射低下などがみられ、進行例では日常生活動作を大きく損ないます。糖尿病性神経障害、アルコール性末梢神経障害、薬剤性ニューロパチー、ビタミンB12欠乏、甲状腺機能異常、ギラン・バレー症候群なども鑑別に挙がるため、発症様式、進行速度、栄養背景、随伴症状を統合して評価します。
湿性脚気では、末梢血管拡張や心機能への影響により、頻脈、労作時呼吸困難、起坐呼吸、下腿浮腫、体重増加、胸部不快感などがみられます。心不全所見を認める場合、虚血性心疾患、弁膜症、心筋症、心房細動などの不整脈、腎機能障害、甲状腺機能異常、肺疾患などとの鑑別を急ぐ必要があります。しかし、栄養リスクを有する患者では、一般的な心不全評価と並行してチアミン欠乏を鑑別に入れることが重要です。
脚気衝心は、チアミン欠乏を背景に急速な循環不全や代謝性アシドーシスを来し得る重篤な病態です。頻脈、低血圧、著明な浮腫、呼吸不全、末梢循環不全、乳酸上昇などがみられることがあり、救急・集中治療の場面で鑑別に挙げます。特に、原因が明確でない高拍出性心不全や乳酸アシドーシスを伴うショック、低栄養患者の急速な状態悪化では、脚気衝心を含むチアミン欠乏の可能性を検討します。
上記のような状況では、採血結果や画像検査だけに依存せず、患者の全身状態に応じて緊急度を判断します。呼吸困難、胸痛、意識障害、失神、ショック、急速な浮腫増悪などがある場合は、脚気の可能性の有無にかかわらず、速やかな救急対応と循環・呼吸管理が優先されます。
ビタミンB1欠乏症の診断は、単一の検査値だけで確定できるものではありません。栄養背景、臨床症状、神経学的所見、心不全の有無、他疾患の除外、チアミン補充後の反応を組み合わせて総合的に判断します。血中または全血チアミン濃度、チアミン二リン酸の測定、赤血球トランスケトラーゼ活性などが参考となる場合がありますが、施設によって測定可能性、検体の取扱い、結果判明までの時間、基準値が異なります。
採血は、可能であれば補充開始前に行うことが望まれます。ただし、重症の神経症状、心不全、意識障害、ショック、ウェルニッケ脳症が疑われる患者において、検査結果を待つことを理由に補充開始を遅らせるべきではありません。チアミン欠乏は治療可能である一方、介入の遅れが神経学的後遺症や循環不全の悪化につながる可能性があるためです。
また、乳酸上昇や代謝性アシドーシスはチアミン欠乏を示唆し得る所見ですが、敗血症、組織低灌流、肝不全、薬剤、けいれん、悪性腫瘍など多様な原因で生じます。チアミン欠乏を疑ったとしても、他の生命を脅かす原因検索を止めないことが大切です。診断的治療への反応は有用な補助情報になり得ますが、改善の有無のみで安易に確定・否定するのではなく、臨床経過を継続して再評価します。
MSDマニュアル プロフェッショナル版:チアミン欠乏症
MSDマニュアルでは、チアミン欠乏症の診断は症状と身体診察を中心に行い、心臓および神経系の診察を重視すると説明されています。また、容易に確定できる検査がないため、他の原因を検討する検査と臨床的な評価を組み合わせる必要があります。
msdmanuals(https://www.msdmanuals.com/ja-jp/home/11-%E6%A0%84%E9%A4%8A%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E3%83%93%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%B3/%E3%83%81%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%B3%E6%AC%A0%E4%B9%8F%E7%97%87)
治療の基本は、不足したチアミンを速やかに補充し、欠乏を招いた背景を是正することです。軽症で経口摂取が可能な患者と、神経症状・循環器症状が進行している患者、吸収障害が疑われる患者、嘔吐や意識障害のため内服困難な患者では、投与経路や投与量の考え方が異なります。実際の処方・注射投与は、患者の重症度、併存疾患、添付文書、施設プロトコル、専門医の判断に基づいて行います。
特に、ウェルニッケ脳症が疑われる場合や、重症のチアミン欠乏が想定される場合には、ブドウ糖を含む輸液・栄養投与との関係に注意が必要です。糖質の代謝にはチアミンが必要であるため、著しい欠乏状態で糖質を先行させると、チアミン需要の増大によって神経症状が悪化する懸念があります。臨床では、栄養投与の前または同時に適切なチアミン補充を考慮し、栄養管理チーム、薬剤師、医師、看護師が連携して投与計画を確認します。
チアミン欠乏は、他の水溶性ビタミン不足や、たんぱく質・微量元素を含む複合的な低栄養と併存し得ます。そのため、チアミンだけを補充して終えるのではなく、食事摂取量、エネルギー量、たんぱく質量、他のビタミン・ミネラル不足、嚥下機能、口腔状態、社会的孤立、経済的困難、アルコール使用などを評価します。栄養サポートは、原因に応じて管理栄養士、歯科、精神科・依存症支援、地域連携部門などを含む多職種支援につなげることが再発予防に有用です。
MSDマニュアルでは、軽度の多発神経障害では経口チアミンの補充、中等度以上の神経障害や心血管性脚気では病態に応じたより積極的な投与が示され、チアミン欠乏では他のビタミンB群欠乏を伴うことがあるため複数の水溶性ビタミン投与も考慮されるとされています。個別の投与量・投与期間は、一般論をそのまま適用せず、診療環境と患者状態に基づいて決定してください。
msdmanuals(https://www.msdmanuals.com/ja-jp/professional/09-%E6%A0%84%E9%A4%8A%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E3%83%93%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%B3%E6%AC%A0%E4%B9%8F%E7%97%87-%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87-%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E4%B8%AD%E6%AF%92/%E3%83%81%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%B3%E6%AC%A0%E4%B9%8F%E7%97%87)
ビタミンB1脚気は、早期には非特異的な不調として現れますが、進行すると末梢神経障害、心不全、意識障害など重大な転帰につながり得ます。医療従事者は「低栄養リスクを持つ患者に、新しい神経症状または循環器症状が出現した」という組み合わせを見逃さず、検査と治療を適切な緊急度で進めることが求められます。

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